20年を長いと思うか短いと思うか。

地球の大きさから見たら、瞬きする瞬間でしかないと思う。
たかが45年しか生きていない自分でも、20年前なんてついこの間のことだ。

私が親から赤い不良と揶揄されていたのをご存知の昔からの友達は、20年前に六ヶ所村の核燃料再処理施設建設反対の請願に署名してくれたのを覚えているだろうね。
1986年にチェルノブイリ事故が起きた時から、渡米するまでの5年間、大学にもあんまり行かず、仕事が終わってからも組合事務所に詰めて、反原発の運動が一番大事なことだった。
青森のリンゴジュースを共同購入して販売して、福島の海岸で焚き火しながら原発を見上げ、下北半島の美しい景色の中をドライブしながら、絶対に起こってはいけないことだけどと想像していた出来事が映像になって飛び込んで来る。

あの頃、私たちが反対を唱えた理由は、原子力の平和利用の技術の問題じゃなくて、なんでこんなに地震が多い不安定な日本に50基以上の原発を建てるのかだった。
頭のまともな人なら、そんな馬鹿なことはしない。
反対派の私たちと推進派の彼らとの間の議論は、大丈夫か大丈夫じゃないかの押し問答だった。
大丈夫の根拠は理解できなかった。結局、そんな大きな地震は来ないという根拠のない自信にしか見えなかった。

地震は20年間来なかった。彼らは、20年間を永遠の時間と思っていたのだろうか。

「何かあったら一番最初に犠牲になるのはあなたたちなんです。一緒に反対しましょう」と呼びかけたとき、それまで無表情で立っていた六ヶ所村の建設予定地のフェンスを警護する青年の顔が歪んだのを今でも鮮明に思い出す。

福島原発で事故が起こったら、南北の幹線道路を封鎖し、自衛隊が出動し、現地住民は見殺しにされるというのが、私たちが予想したシナリオだった。
今、NHKのニュースで、「屋内に入ってください」「換気扇は回さないでください」「皮膚に付着しないように衣服から体を露出しないように」と呼びかけている。
最悪の予想が現実になるのを見ながら、胃液が上がってくる。

だから言ったじゃないかとか、そうれ見ろとか、反対運動に関わった者はそんなこと思っていない。止められなかった自分たちが非力だったとの悔しさと情けなさと怒りで震えている。

これからきっと、贅沢な暮らしを選んだ国民の罪だとか、私たち一人一人がいけないんだなんて、的外れな感傷が流布すると思うけど、間違えないで欲しい。
自分の利益のために、住民や国民を犠牲にすることを選んだ人間がいるのだ。

日本の電力料金体系は、経費に数%の利益を上乗せして徴収できる。建設費が高い原発を作れば、経費の分母が増えるので上乗せできる利益が増える。
東電社長の青木均一、木川田一隆、平岩外四、三菱重工業、日立製作所、GEの歴代社長・重役、中曽根康弘を筆頭とした自民党議員、初代原子力委員会委員長だった読売新聞の正力松太郎。
彼ら個人の意思決定が、日本のエネルギー政策、原子力発電推進を決定してきた。

国民の生活を向上させるために電力が必要だなんて、まやかしだ。
なければないで何とかするのが国民ってもんだ。
原発を選ばなければ、風波太陽をもっと本気で研究開発したはずだ。必要は発明の母だから。25年前にチェルノブイリから学び違う道を選択していれば、今とは違う現実があったはずだ。
国民生活の基盤となるインフラ政策は、政治家の意思で決定される。
日本の政治家は、東電や重工が原発作って儲けられるようにリーダーシップを発揮してきた。
それは、より大きな個人の利益(金銭だけでなく名声、縄張り、名誉を含めて)を求める貪る心が求めたものだ。
社会的な影響力が大きい人間が、自分の利益を優先させたら、それは罪だ。彼らは犯罪者だ。

チェルノブイリで被爆した子供たちのうち生き残った者は、もう成人している。結婚して子供を作る誰もが求める平凡な幸せを求めながら、被爆者として苦悩している。
子孫が病気になる遺伝子を残していいのかと。

放射能漏れ事故は、今生きている私たちだけの問題じゃない。
これから放射性物質を食べ物として取り入れ続ける子供たちから、未来を奪うのだ。

個人で出来ることは自分の身の安全を確保することだ。
安全な食料を今すぐ確保しておくように。
玄米と味噌と海藻を。外にはできるだけ出ない。風向きを確認して行動する。
電力は貯められないから、今すぐ節電するより今できることをしておくように。
電力を使わない生活様式の準備をするように。

そして、これは無理だとは思うけど、もし可能なら関東地方を出るように。
皆の無事と、未来を祈っています。

(2011年3月12日執筆 mixi日記で公開)