10歳の娘と、アメリカの99%問題について語り合った その2

<ここまで格差を大きくしたのは「やりすぎ」だ>

食卓の上に、箸置きとお皿と湯飲みを置いて、大金持ちが箸置きに、貧乏人が湯飲みに、真ん中の人がお皿の上に乗っていると説明した。
大金持ちと貧乏人と普通の人が居るのが現実だ。格差があるのは仕方がない。
格差と言っても、大金持ちは純金のDSを持っていて、普通の人は普通のDSを持っていて、貧乏な人はDSを持っていない程度なら、我慢できる。だけど、貧乏人が家賃を払ったらご飯を買うお金がなくなってしまうとか、栄養失調で病気になったりするほどの格差は、間違っている。

(もちろん地球上には、飢え死にしそうな人がたくさん居る地域と、ご飯を食べられている地域との間で大きな格差があって、それも大問題だ。でも、今は、アメリカとか、日本とか、ある国の中だけを考えてみよう。)

アメリカや日本は、王様が富を独り占めしている国じゃない。皆が選挙で選んだ政治家が、私たちが納めた税金を使って、国を運営している。そういう国で、貧乏人がお腹を空かせていてたり、住む家がなかったりするのは、何かが間違っている。お金持ちが、自分たちが持っているお金が減らないばかりか、できれば増えるようにしてほしいと、制度をいじってきた結果なんだけど、ハッキリ言って「やりすぎた」。
真ん中のお皿に乗っていたお金まで、大金持ちのところに行ってしまった。ここまで、やりすぎてしまうと、国の中がおかしいことになってくる。

<貧乏から抜け出したひいおじいちゃん>

10歳児にとっては、DSが買えないってことは、重大な問題だ。
自分が貧乏人の湯飲みの中に入っていなくて良かったそうだ。
と同時に、湯飲みの上に生まれたら、一生湯飲みの中から出られなくて、DSは持てないのは可愛そうだと感じたようだ。
子供には、正義の心がある。
湯飲みの中の人は、お皿に移ることはできないのかと、聞いてきた。
「できるよ。うちのおじいちゃんやおばあちゃんは、湯飲みからお皿に移ったんだよ。」と答えたら、びっくりしていた。
この「おじいちゃんやおばあちゃん」とは、彼女の祖父母、つまり私の両親のことではない。
私の祖父母のことだ。皆、娘が生まれる前に亡くなっている。彼女が知らないのも無理はない。

「うちは、ひいおじいちゃんたちががんばって湯飲みからお皿に移ったので、おじいちゃんたちも私たちも、貧乏しないで済んでいるんだよ。」
私は、彼女の知らない曽祖父母のことを話して聞かせた。

私の両親の親たちは4人とも、貧しい家庭に生まれた。と言っても、多くの国民が貧しかった時代のことだから、特別に彼らの家だけが貧乏だったわけじゃない。

母方の祖父は、世界遺産になった白川郷の近くの山岳地帯で、百姓の何男坊に生まれた。実際のところ、家業が何であったのか、何人兄弟の何番目だったのか、私は知らない。名前に二がつくので、男兄弟の2番目だったのだろう。長男ではなかったから、いずれは家を出なければならない。余剰人口を支えられるような土地も仕事もない戦前の山間部では、家を出るとはつまり、村の外に働きに出るということだ。「お前は饅頭が好きだから、饅頭屋になればよい」と言われて、尋常小学校を出るとすぐに東京の和菓子屋に奉公に出された。
そこで技術を身につけて暖簾分けをしてもらって、自分の店を構えた。働き者で店も繁盛し、地元の商工会にも貢献した。

母方の祖母は、田舎の人の紹介で、その祖父と結婚した。富山湾の城下町の近くの生まれで、尋常小学校を出ると京都に子守として奉公に出た。18か19で、一回り以上年上の、会ったこともない祖父の元に嫁いで来た。
店を手伝い、子供を4人生んで3人育て上げた。働き者で余計な口出しをしない、どこまでも「昔の普通の女」だった。

祖父母の店には、家族のほかに、多くの住み込みの従業員がいた。
そのほとんどが、祖父母の田舎から上京して来た親戚の若者たちで、製菓の技術を身につけて独立したり、結婚して東京で所帯をもった。
祖父の店で幼少期を過ごした私は、店で働くお兄さんやお姉さんにかわいがってもらった。祖父母は、東京の親代わりとして、彼ら彼女らの面倒をよく見ていた。

数年前に白川郷に観光に行ったので、雪深い山村での生活がどんなものか、娘も学んでいる。
道路ができる前のそこでの暮らしは、とても厳しいものだった。
今の自分の生活に比べたら、曽祖父の子供時代は、たとえ住むところ、食べるもの、着るものはあっても、「貧乏だった」と容易に想像がついたようだ。

私の父方の祖父は、母方と違って東京生まれの東京育ちだった。父親は旅先で客死しており、姉兄は関東大震災で亡くなっている。
母一人子一人で育った。義務教育を終えると、銀行の小遣いさんとして働きながら夜間学校に通って簿記を習い、正式な銀行員になった。
そこで上司に引き抜かれて、戦前は満鉄関係の会社で働いた。彼にもう少し野心があったら、満州に渡っていたかもしれず、私の父は戦災孤児になっていたかもしれない。戦後、そこそこの貯金を株で増やして、中央線沿線の新興住宅地に自宅を買った。江戸時代からずっと町民の家系だったから、ご先祖さま以来、初めて自分たちの家を持った。
祖母は、小学校も卒業できずに働きに出された。漁村の小屋の畳の上で、一緒に働く娘たちと雑魚寝をしながら、絶対に東京に出ようと誓ったそうだ。
祖母は美しい人だった。丸の内のオフィス街でタバコ売り場の店員をしているときに、祖父に見初められて結婚をした。
三男三女に恵まれて、病気に伏せることもなく、ある日ぽっくりと亡くなった。

「私のおじいちゃん、おばあちゃんが、がんばったから、あなたのおじいちゃん、おばあちゃんは、貧乏な暮らしを経験しないで済んだ。当時は、DSがなかったから買えなかったけど、マンガを買ったり、友達と映画を見に行ったり、中古自動車を買うぐらいのことはできた。そりゃ、海外旅行はできなかったかもしれないけど、「普通の暮らし」ができたわけだ。」
だから、曽祖父母には感謝の心をもってお参りするように、と教育的に締めくくった。

<頑張れば貧乏から抜け出られる時代は終わった>

ついこの間まで、アメリカも日本も、私の祖父母のように、普通の人間が少しまじめに働けば、貧乏から抜け出せる国だった。
私の両親の世代ですら、高卒で就職したり、上京して就職した人でも、まじめに働いてお金を貯めれば持ち家が買えた。
マイホームがどんどん都心から遠くなって、通勤地獄や単身赴任と引き換えにではあったが、なんとかがんばって家を買った。たぶん、本当はその辺りで軌道修正したほうが良かったのだろう。

私が就職する頃にバブル経済が始まって、投資ではない投機のお金が普通の暮らしに降り注いで来た。家の値段はあっという間に2倍、3倍になって、労働時間が長くなって、雇用が不安定になって、コミュニティが崩壊した。がんばれば貧乏から抜け出せる時代は、とっくの昔に終わってしまった。

今のアメリカも日本も、貧乏人の湯飲みの中に生まれると、普通の人の普通の努力では、お皿の上に移れない国だ。そもそも、お皿自体が小さくなっているしね。
才能のある一部の人がすごい努力をして、お金持ちになると、ニュースになる。つまり、ニュースに出るくらい珍しいことだってわけだ。
でも、そういう時代の変化って目に見えにくい。

だから、昔を知ってる人は、「湯飲みから出れない人はがんばってないからだ」と思い込んでいる。
がんばっても出れない人は、もっとがんばらないといけないと思うし、普通の人は皿から滑り落ちないように必死にがんばる。

前に書いたように、今の大金持ちが制度壊しを「やりすぎ」た世の中は、普通の人ががんばっても経済が回らない仕組みになっている。
そこの所を問題にしないで、「がんばれ」というのは、いかさまゲームだ。

私は、「がんばれ」という言葉が嫌いだ。
一生懸命がんばっている人が、「がんばれ」と励まされたら、「これ以上もっと頑張れと言うのか!」と怒りや悲しみがわいてくるだろう。

私は、「弱者に優しい」という言葉も嫌いだ。
だれが、だれを「弱者」と規定しているのか。仕組みのせいで、弱者に落としこめられているだけで、貧乏人は居ても、弱者は居ない。
弱者に落とし込んでおいてから、優しくしてあげるなんて、詐欺でしかない。

「がんばれ」という人の無責任さに腹が立つし、「優しくしてあげる」という優越感に触れると嫌悪感が走る。
お皿の上の普通の人が、「がんばれ」とか「優しく」とか言っている間は、世の中、変わらないと思う。

湯飲みをできるだけ小さくし、湯飲みの中からお皿に移れるハシゴをかける。
お皿の上になるべくたくさんのお金を移す。
箸置きの人が政治に影響する力を小さくさせる。
そういう国なら、わざわざ掛け声をかけなくても、人は人に優しくできるし、がんばろうという気持ちになれる。

理想かもしれない。でも、理想を掲げなければ、どこに向かっていけばいいのか分からずに、互いを傷つけあうだけだ。
とりあえず、自分の家族がどこから来て、どこに立っていて、どこに向かっていきそうなのか、本当はどこへ行きたいのか、話してみるのがいいんじゃないか。少なくとも、我が家の食卓の会話は、私にとって多くの気づきとなったので。