家族全員一致で、自分たち用クリスマスプレゼントとして大人買いした『One Piece』が、先週ようやく届いた。冬休みにゆっくり読む計画だったのだが、間に合わず。

娘は、学校から帰るとさっさと宿題を済ませ、朝も早起きして、読み込んでいる。
昨日も、トイレから中々出てこないので覗いたら、読みながら嗚咽していた。

去年の冬休みに全巻をMさんから借りて、3人で一気に読んだ。このマンガを今まで読んでいなかったのは人生の損失であったと思う一方で、まとめて読める幸せも感じた。「引っ越したら、One Pieceを買おうね」を合言葉に、新居探しの苦労もがんばったのだ。

去年、9歳(日本語学校では3年生)だった娘が、あそこまで集中して読書をしたのは初めてだった。なにせ、1日中読んでいた。
そして、読み終わったら、学習面でいろいろと変化があった。

まず、本を読むスピードが上がり、厚い本も臆せず手に取るようになった。
読めるという自信がついたようだ。
私はこれを、「読書体力」と呼んでいる。
本を読むという作業も、マッスルが必要だ。頭脳の良し悪しより、体に力がないと、量をこなせない。

それでも、英語の厚い本や、行間の狭い本は、しり込みして手に取らないので、Kindleを買い与えた。電子図書だと、厚さや行間に圧倒されることがない。夏休みには、『大草原の小さな家』や『足長おじさん』を読んだ。
それでも9月に新学期が始まったときは、読書チャレンジの計画目標も控えめに立てていた。

アメリカの学校では5年生、小学校の最終学年だ。先生が、毎日、読み聞かせをしてくれる。その本の続きが早く知りたくて、自分で読み始めた。最初は、投げ出してた本も、10月半ばには読みこなせるようになってきた。

ある日、彼女の話し方が変化していることに気がついた。長い文を一気に話せるようになっているではないか。それまでは、「そのときー、私がー」と、文節ごとに区切って話すのが耳障りで、正直言ってこの子供は頭が良くないのかもしれないと思っていた。それが、去年の10月ごろから、食卓の会話が大人3人の言葉の応酬になっていた。

そうか、文節ごとに区切って話すのは、話しながら言葉を捜している状態だったのだと気がついた。頭の中で、一瞬にして文を組み立てることができるようになったから、口から一気に出てくるようになったのだな。

その頃から、『ハリーポッター』の日本語版を読み始めた。彼女のアメリカ人の親友は2年生で自分で読めるようになっていた。英語がネイティブのクラスメイトは3年生で読んでいた。自分は読めない、とコンプレックスを感じていた「ハリポタ」である。日英両語に手をつけて、日本語版の方が楽に読めると、そちらを読み進めた。3日もあれば1冊読み終えるペースができていた。

「読書体力」が、ぐんぐんと付いているのが分かった。
宿題をするのにかかる時間が、減っていった。ともかく、早く宿題を終わらせて続きが読みたいからという動機もあるが、「書く」作業が簡単になってきたのだ。

そして、1年経って、また『One Piece』を読み返している。驚いたことに、ほとんど内容を覚えておらず、また一から楽しんでいるようだ。子供の短期記憶は、あっという間に新しい情報に書き換えられるようだ。(これ、大人目線から子供を理解するうえで大事なポイントだと思う。)

1年前と違うのは、ストーリー展開の面白さだけでなく、人間関係や登場人物の気持ちに感情移入して読んでいるところ。そういった発見を語ってくれる。
嗚咽するほど、感情移入して読んでいる姿を見ると、「心の力」も耕しているなあと思う。

体力、脳力、心力。物語の世界に入ることは、この3つの力を相互に鍛え上げながら、人間力をつけていく体験だ。
物語なら、メディアは何でもいいと思う。文字の普及していない時代の口承文芸、芝居、歌物語から始まって、小説、ラジオ、映画、漫画、テレビ、ゲームと変わっても、人が物語の世界に入って、登場人物に成り代わってその世界を生き、何かを得て生還することには代わりない。

その過程で身につく力が、自分の人生を生きていくときの財産になる。

心の中にモヤモヤがある人は、「言いたいことがあるんだ」と言うけど、モヤモヤを言葉にして言うには、力が必要だ。
「言いたいことが言えない世の中」なんて言うけど、モヤモヤが言葉になっていたら自然に口をついて出てくる。
モヤモヤを言葉にするのは、自分の中でのプロセスだ。社会とは関係ない。

「言いたいこと」があるなら、文節で区切らないで、一気に話せるようになろうよ。手始めに、「One Piece」68巻、3日で読もうよ。で、彼らの冒険を熱く語りあおうぜ(って、海賊風語尾で。)