なぜ、反原発を訴える集会やデモが全国で行われているのか。なぜ、被災地の人が、原発立地地の人が、それを見て感情を逆なでされるのか。

どちらの側の人間も、自分の気持ちをしっかり感じて欲しい。
そこにあるのは、「怒り」ではないか?

「怒り」は、どこから来ているのか。

人は、命の危険を感じるとまず「恐怖」を感じる。「怖さ」のピークが過ぎて我にかえって、次に感じるのは「怒り」だ。

地震と津波で多くの人が死んだ。もしも、原発が事故を起こさなかったら、世界中の人間が3月11日に故人を偲ぶために祈りを捧げただろう。自然災害が相手だったら、愛する者を奪われた怒りも、いずれは静まっていく。

しかし、原発事故で殺された、殺されかけた、あるいは殺されようとしている「恐怖」を感じた私たちは、終わりのない「怒り」に身を焦がしている。
なぜなら、事故を起こした犯人が、被曝をさせた犯人が、財産を奪った犯人が、家族をバラバラにさせた犯人が、コミュニティを壊した犯人が、顔も見せず、糾弾もされず、罪にも問われず、調子のいいことばかり言いながら、子供たちの未来を足蹴にしているからだ。

この国に正義がないから、心ある人間は怒り狂っているのだ。

持続する怒りに蝕まれると、人は本能的に、身近な者や分かりやすい対象に八つ当たりして、怒りのエネルギーを吐き出して、心と体の健康を保とうとする。
それは、自然な体の欲求なのだが、その欲求のままに家族に暴力を振るったり、仲間に喧嘩をふっかけたりするのでは、野生動物と変わらない。

人が人であるためには、怒りに身を任せてはいけない。
野生動物の群れではなく、人の社会を保ちたいなら、正義がなければいけない。

正義とは、何人も、他者から人としての尊厳を踏みにじられず、自ら人としての尊厳を投げ出さない、ということだ。

だから、金で全てを解決するようなやり方には正義はない。必死の訴えを冷笑するような受け答えに正義はない。問題に真剣に向き合わず、誰かのせいにして責任を取らず、つけを子供世代に押し付けるような政府に正義はない。若者の話を聞かず、昔のやり方にしがみついて、置いていかれたと愚痴をいう地方の政治家に正義はない。

正義をこの国に取り戻す。強い意志を持って、間違っていることは間違っていると言う。問題は問題だと言う。私たちの真剣さで、犯人を名指ししなければ、戦争に負けたときと同じように、本当に悪い奴の罪が曖昧なままで、被害者は忘れ去られてしまう。

そのために、原発の話をしよう。
誤魔化さないで、騙されないで、逃げないで、はっきりと、原発の話をしよう。
タブーなんかにしないで、全員で原発の話をしよう。
天気の話や景気の話や芸能人の噂話をするみたいに、たくさん原発の話をしよう。
3月11日だけじゃなくて、毎日、原発の話をしよう。

一方的に話すのでもなく、聞いているふりをするのでもなく、対話を重ねていこうよ。