立春です。九星の暦では今日から新しい年が始まります。

今年は九星では四緑(しろく)、干支では甲午(きのえうま)の甲午四緑の年です。
甲は、木の兄つまり陽の木、午は陽の火、四緑も木です。

一昨年は壬(みずのえ)でした。水の力で物事が壊れ、そこに新しい種子が孕まれた年でした。
去年は癸(みずのと)、壊された土地の地ならしが行われ、種子の内部に孕まれた生命体が、それと分かる程度にまで大きくなった年でした。
今年の甲(きのえ)という字は、亀の甲羅をかたどったもので、外側の硬い殻、種の外皮のことです。
種が孕まれ、中身が育ったけれども、とても硬い殻で護られているので、種の中に何が宿ったのかは外からは分からない。今年は、そういう状態の年です。
芽吹きはまだ先です。

午は、十二支の後半の最初の干支。午前と午後の午でもあるように、「これまで」と「これから」の入れ替わる場所にあたります。
それまで高まってきた陽の気の極まった巳年の次に、一点の陰の気が表れるのが午年。万物にはじめて衰微の傾向が起こり始めたことを示しています。
と言っても、自然の現象として隆盛を極めたものが衰微し始めるという意味であって、「善いことが滅びて悪いことが栄える」というような意味合ではありませんので、ご注意を。
人間ドラマとして想像すると、繁栄した国が衰退を始めるというマイナスのイメージもありえるし、悪を極めた権力が没落を始めるという喜ばしいイメージも描けるでしょう。

十二支で一巡する1つの流れのなかで、前半のものと全く違うものが後半に現れるために、転換点の「午年」ではその2つが互いにからみあい、すり合わされている状態となります。
まったく新しいものが生まれてくる場合もあるだろうし、古いものが変化する場合もあるだろうし、古くなったものが抜け落ちていく場合もあるでしょう。
前半と後半のまったく違うものを適合させようというのだから、非常に激しくきわめて強い力で、世の中がゆすぶられます。
「午」は、その転換のエネルギーに満ちた場なのです。

この転換点である午を、分かれ目と思うのか、つなぎ目と思うのかは、その人の人生観によって違うのではないでしょうか。
今までのままが良い人にとっては、「午年」から後は失っていくばかりです。「午」の字を「そむく、さからう」と読んだのは、そういう気持ちの表れでしょう。

十干十二支は60年に1度めぐってきます。
今年は、単に午年が十二支の折り返し時点の年であるだけでなく、甲子(きのえね)から始まった60年サイクルの折り返し点でもあります。
1984年から始まった60年サイクルの前半の30年が終わり、後半の30年に流れる世の中への転換が行われる年となります。

しかも、九星魔方陣の中央に四緑が入ったことによって、四緑の特徴が発揮されます。
四緑木星は、「風」であり、十分に成長した樹木です。晩春・初夏、午前7時から11時と、太陽の光が増してくるときにあたり、旺盛なエネルギーを持っています。
「風」自体には形がないので目に見えませんが、物にぶつかって流れが変わったり、小さな隙間に入り込んで力を大きくしたり、留まることなく移動し続け、その存在感を発揮します。
ことに旺盛なエネルギーをもった四緑の風は、情勢を動かし、情勢に方向を変えられ、情勢を大きく翻弄することになります。午の強いエネルギーも働きますから、大風がふくでしょう。
風の本領は伝達力。遠くまで届くのも風なら、噂を撒くのも風、花粉を運ぶのも風です。
四緑には「信頼」「調和」「縁談」という象意がありますから、風の力に運ばれてご縁ができ、大風にかき回された後には落ち着くところに落ち着くのでしょう。

九星では、昨年は五黄が中央に来る定位の年でした。今年は新しい一巡が始まっています。
ここでも、リセット後の新しい時代が動きだしています。

九星の9、十干の10、十二支の12の最小公倍数は180です。同じ干支と九星の組み合わせは180年に一度めぐってきます。
今の180年サイクルは、1864年(元治元年)に始まっています。3年後の1867年に大政奉還で明治政府が成立する、江戸時代の終わりです。
今年は、明治に始まった時代の最後の30年間の幕開けに位置しているといえましょう。
前回の甲午四緑の年は、1834年は33年から39年まで続いた天保の大飢饉の最中でした。
この飢饉以降、幕藩体制は衰退し、江戸から明治へと時代が移り変わっていきました。


私たちは、歴史から何を学ぶことができるでしょうか。
先人の知恵を元に、どんな未来を作ることができるでしょうか。

甲の殻に覆われて、卵の中に入っているものは見えません。
私は、その中身はまだどういう特性のものなのか定まっていないと思います。
新しいものが生まれることは運命付けられているけれども、その命が善きものなのか悪しきものなのかは、決まっていません。
いえむしろ、善きものにするのも、悪しきものにするのも、ひとえに宿った命を育む人の資質によると思います。

風に翻弄され、右往左往する1年となるでしょうが、善きものを願う心を失わないでいましょう。