3年前、福島第一原発が全電源停止、バックアップ電源もないと知って、「爆発しないでくれ」と祈った。

しかし、私の願いは適わなかった。4つの原発が爆発し、大量の放射能が大気に出た。

それ以来、私は毎日、ネットに張り付き、刻々と入ってくる情報を追ってきた。
次から次へと被曝回避の原則が無視され、放射性物質による汚染が日本中に広がっていくので、息を詰めているような毎日だった。
記憶を頼りに当時のことを振り返ってみた。(記憶だけで書いているので、細部は不正確かもしれない。それでも、これが私にとっての真実なので、あえて検証せずに掲載した。)

なんでSPEDIのデータが出ないんだろう?出ているのに私が気づいていないのか?と思っていた。
なんでホールボディカウンターで測らないんだろう?混乱しているせいなのか?と思っていた。
サッカーをしていた子どもが鼻血を出した。アメリカでも。
そうこうしているうちに、いきなり子どもの被曝が年20ミリシーベルトまでOKになって、心底びっくりした。
何かしなければいけないとサンフランシスコ領事館前の抗議行動に行った。
そこで木下黄太さんのサイトを教えられ、フェイスブックに参加した。
あっという間にメンバーが5000人になって、国会前に散歩に行こう企画が出てきた。マスクをしろとか、しないとか。とても避難しろなんて言える雰囲気じゃなかった。
ETVのネットワークで作る放射能マップを、日本語放送局でも放映した。
飯館村で今中先生が怖い気持ちから笑っていた。小出先生は笑っていなくて、この人は特別なんだと分かった。
今なら表土の除染が間に合う。時間が経てば沈降する。早くしろよと思っていたら、児玉先生が国会で訴えているのを見た。
原発の学習会をした。逃げるときは車じゃダメだ。汚染を拡散するからと言った直後に、飯館村から家財道具を積んだ車で避難する人々をテレビで見た。
放射能を拡散しないのが、基本原則だろう!と腹が立った。
そのうち瓦礫を燃やすという噂が出てきて、本当に燃やすことになった。馬鹿じゃないかと思った。
食品の暫定基準値が高いままで、学校給食に牛乳や牛肉が使われて、はあ?頭が悪いのか?とあきれた。

このころには、毎日、新しい被曝材料が政府から投げられて、匍匐前進しているような気分だった。
なんで、後から後から、無能な施策が出てくるんだ??そして、ようやく気がついた。
ホールボディカウンターで測らなかったのは、震災の混乱で準備できなかったわけじゃなくて、ヨウ素が計測できなくなるまで待ったんだって。

誰も責任を取らないんだ。そう決めたんだってことがよーく分かった。

除染の実証実験とやらで、放射性物質入りのビニール袋がたくさんできて、谷を埋めれば処分できますと、大学教授がテレビで言うのを聞いてアホかと思った。きっと実現は無理でしょと結論づけるのだと思った。
そしたら本当に谷を埋めるような除染作業が始まった。
日本から来た人と会った。手にピリピリした赤い斑点が2つほどできた。背負って移動してきたのだろうなと思った。
福島ナンバーの車が嫌われる、避難者が嫌われるという話の中で、放射能のついた車や物を避け、避難者には汚染されていない新しいものを与えるべきと言う正論は通じなくなった。
ああ、いやだな、いつの間にか「差別」の話になってきたぞ。この袋小路に陥ったら、構図は単純化されどんどん人のつながりが切れていく。その予感どおりに、なっていった。
毎日睡眠4時間で、私は何にとりつかれているのだろうと思いながらネットを見ていた。
汚染水のことは事故直後から分かっていた。新聞紙を放り込んでいたんだよ。

漁業者が反対しているから汚染水を流さないという。そして経済的に追い詰める。漁業者が良しと言ったから汚染水を流す日を待っている。紳士的なんじゃない。YESと言った漁業者の自己責任にさせるためだ。

帰還を望む人々の声があるという。当たり前だ。帰れないと分かっていても、人間は失ったものを弔うために、帰りたいと口にする。その言質を使って、帰りたいと言ったから返すのだと自己責任を押し付ける。そのための除染作業の汚い金の流れ。

除染してくれと頼むのは、作業を引き受ける人間に被曝をしてもらうことになる。
被害者が巧妙に加害者に仕立て上げられていく。

一番最初の対応を間違えたんだ。SPEDIを使って対応すべきだったんだ。
それをできなかった組織の犯した失敗にほっかぶりするつもりなんだ。あの戦争に負けたときと全く一緒だ。兵隊を現地で殺した将校たちは生きて帰った。空襲や原爆で国民を殺させた政治家は生き残った。
2011年3月11日は1945年8月15日からまっすぐにつながっている。
そう思いながら、1年目の3月11日を迎えていた。