人間は痛いとか苦しいのに弱い。

他人が痛がったり苦しがったりするのを見ると、自分が痛かったり苦しかったりしたことを思い出して辛くなる。
この辛いという不快感をどうにしかしたいから、「自分は痛くならない。自分は苦しくならない。自分は大丈夫」と自分に信じさせようとする。生きていくうえで、大切な自己防衛本能だ。
でも、自分に信じ込ませるためには、合理的な理由がないと、脳は納得しない。
そこで登場するのが「おまじないの言葉」だ。

よく使われるのが、痛がっている人、苦しんでいる人の痛みや苦しみを過小評価する「おまじないの言葉」だ。怪我をして痛がっている子供に、「大したことないよ」と言ったり、苦しさを訴える友人に「気のせいよ」「気にしすぎよ」と言って、その人の感じている痛みや苦痛を否定する。

次によく使う方法が、他人が痛みや苦痛を感じることになった原因を特定し、自分にはその原因は当てはまらないと考える方法だ。「バチがあたったんだ」という「おなじないの言葉」が、長い間、最強の支持を受けてきた。バリエーションとしては、「何々をしたから、そうなった」という言い方がある。「薄着をしていたから」とか「言うことを聞かないから」と子供を責めるのによく使われる。「あの人は昔、どこそこで働いていたから」とか「あのうちは昔から何々だったから」というもっともらしい噂や決め付けが、何の検証もなく流通し、差別や中傷になる。

しかし、さすがに、「バチが当たる」とか「先祖がどこそこ出身だから」では、あまりに非科学的すぎて、自分を信じこませる「おなじないの言葉」としては効力がなくなってきた。代わりに登場したのが、「科学的な根拠」というやつだ。
痛みや苦しみには原因が欲しい。何が原因かが分かれば、自分は予防することが出来るので、同じ痛みや苦しみを味わわなくて済む。自然科学の発達で、そういう新しい「おまじないの言葉」が作り出されてきた。

最初は、病原菌の発見だった。「バイ菌」が病気の原因だから、「バイ菌」を排除すれば自分は痛みも苦しみも味わわなくて済む、なんて素晴らしい!と、人々は「おまじない」に飛びついた。バイ菌退治は、「おまじないの言葉」だけでなく、除菌や殺菌という「おまじないの道具」まで活用できるので、より信憑性がある。
石鹸手洗いの普及で疾病が減ったのは素晴らしかったが、「おまじない」を求める人間の欲求はそこで留まらず、除菌や殺菌用の洗剤や抗菌グッズが大量に開発され消費され、耐性菌が生まれてしまった。
「バイ菌」もよく調べると細菌とは違うウイルスが居ることが分かって、ワクチンという「おまじない」が発明された。ワクチンは伝染病の撲滅に役立ったが、これもまた「おまじない」を求める人間の強い欲求で、予防効果のないワクチンが開発され流通している。

せっかく「バイ菌」が発見されても、「バイ菌」のせいで病気になる人とならない人がいることに気がついて、人間は新しい「おまじないの言葉」を欲しがった。病気になる理由が分からないと、自分も病気になるかもしれないので、人間は不安なのだ。だから、遺伝子の仕組みがわかって、皆、ホッとした。遺伝子異常がある種の疾病を引き起こすことが分かったのは、人類にとって大きな進歩だ。人間の遺伝子を全て調べるなんて、科学技術の進歩はめざましい。しかし、遺伝子は格好の「おまじないの言葉と道具」を与えてくれた。遺伝子異常が痛みや苦しみの原因だから、自分や自分の子供には遺伝子異常がないことが分かれば安心できる。遺伝子異常と出生前診断という「おまじない言葉と道具」が、今はとても流行っている。

まるで遺伝子が全ての痛みや苦しみの原因であるかのように錯覚している人のなんと多いことか。遺伝子異常があっても、幸福に暮らしている人は大勢居る。そういう人が目に入ると、自分の不安は増えるので、遺伝子異常の人には不幸でいてもらって、遺伝子のせいであの人たちは不幸なのだから、遺伝子に異常のない私は大丈夫、と思いたいのだろう。この社会は遺伝子異常の人を不幸にするような制度や習慣がたくさんある。

でも、2011年からは放射線が飛んでいる場所で生活しなければならなくなったので、自分も遺伝子異常を抱える可能性が高くなってきた。これからは、遺伝子の「おまじない言葉」としての効力は下がっていくだろう。人間は、次の「おまじない」を待っている。

科学技術が発達して解明されるだろう病気の要因の1つとして、今、もっとも有力候補と見られているのが、人間の体に寄生してる微生物群だ。そして、たぶん、もう少し先になったら、極微量の電気エネルギーの量とか流れとかが健康状態の決定に大きく関与しているということが証明されるだろう。微生物群も微量の電気エネルギーの流れも、今はまだ見科学分野に閉じ込められているが、研究が進めば多くの素晴らしい成果をもたらしてくれるだろう。

微生物や電気エネルギーが健康に当たる影響が常識になれば、現代の科学の限界を超えた治療法も発明されるだろう。それでも、人間は、科学的な証明の一線を越えて、微生物や電気をネタにした非合理な「おまじない」に依存していくのだろう。

この「おまじない」文化は、痛みや苦しみを味わいたくないという人間の自然な欲求に根ざしているので、これからもずっと続いていく。
しかし、「おまじない」を差別に使わせない知恵、他人の痛みや苦しみを見ても、「おまじない」に頼らないで済むための知恵、そういう知恵を共有し一人ひとりが実践することは可能だ。
とりあえず、自分が頼っている科学が「おまじない」に過ぎないと知り、「でも私にはおまじない」が必要なんだと認めるところから始めたい。