元旦の鯛の姿焼きの残り物で、鯛茶漬け。

本当は鯛めしにしようと思っていたのですが、娘のリクエストでお茶漬けに。
だし汁を張って、お茶漬け用のあられと三つ葉をちらしています。
このお茶漬け用のあられが食べたくてのリクエスト。

夏に大宰府のふくやで朝ごはんに食べためんたいこ茶漬けが美味しかったので、家でもお茶漬けを作ったのですが、何かが違うと言うのです。
あられが入っていないのがいけないのだーと言うので、日本のおばあちゃんからわざわざあられを送ってもらいました。
半年近く、大事に大事にとっておいたあられをふんだんに使ったお茶漬けに満足したようです。

夏に食べたふくやの明太子と言えば、思い出すことがあります。
店内に、「創業当時の味を再現したオリジナル」と書かれている商品がありました。
ちょうど店内では、ふくやの創業者・川原俊夫さんを主人公にしたテレビドラマが上映されていました。
釜山で生まれ育った川原さんが、戦後、朝鮮半島から引き上げてきて、故郷・釜山で食べたスケソウタラの唐辛子漬けを再現し、商売で成功するという物語です。日本人の口に合うように、苦労したということでした。

私は、「オリジナルならアミノ酸や発色剤が入っていないだろう」と思って手にとったのですが、しっかり入っていたので、残念に思いました。
田舎のおばさんにたくあん漬けの作り方を聞いたら、農協で売っているたくあん漬けの素を入れるのだと言われたときと同じ違和感を感じました。

都会育ちの私は、田舎の人は「伝統的な製法」で漬物や発酵食品を作っているとばかり思っていました。
確かにおばさんが、この50年間、作り続けてきた方法ですから、「昔からのやりかた」であることは間違いないです。
でも、明太子もたくあん漬けも、50年しか経っていない比較的新しい食べ物。
それも、戦後の発展の象徴である「科学の力」を利用して作るものだったのですね。

そしておそらく、1950年代の日本人にとって、明太子の鮮やかな赤い色や、たくあんの黄色が「美味しく」見えたのでしょう。
保存料のおかげで商品を全国に流通できたことは、敗戦で植民地から引き上げてきて、一から出直した川原さんが成功した要因のひとつだったのでしょう。
ふくやだけでなく、小さな商店から成功した多くの食品業者にとって、「科学の力」は成功の鍵だったのですね。

ああそうか、50年も経ってしまうと、当時の人の心のうちなど、忘れられてしまうものなんだなあ、と思います。
そして、50年後の私は、赤い明太子や黄色いたくあんではなく、科学の味のしない素朴なものが食べたいと思っているのです。

ふくやでは、無添加明太子も売っていました。
私と同じように、そう考える人も増えてきたから、無添加明太子も商品のラインナップに加えられているのでしょう。

今年は、第二次世界大戦が終わってから70年になります。
戦前、戦時中、戦後の貧しさと暴力と飢えの時代を生きた人々にとっては、「科学の力」で作られた人工的な食べ物が豊かさだったことは理解しますが、いつまでも彼ら彼女らの考える「豊かさ」に引きづられる必要はありません。
私たちは、「科学の力」に頼る時代を飛び越えた伝統技術を、21世紀の知識で復活させることができるのではないでしょうか。